日韓中歷史共同硏究における歷史地理学の手法(Historical Geographic Method in Joint Researches on Japanese-Korean-Chinese History)

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 日韓中歴史共同研究における歴史地理学の手法
 MURAI Shosuke

1.『老松堂日本行録』の校注から『中世倭人伝』まで 1980年代前半、東京大学史料編纂所の助手だった私は、同所教授田中健夫(たなかたけお)氏(1923-2009)から、中世日朝関係史の重要史料を文庫本で刊行する話があるが、『老松堂日本行録』の校注をやってみないか、というお誘いを受けた。この史料は、1420年に朝鮮王朝の回礼使宋希璟が京都を訪れ、前年の応永外寇(己亥東征)後の両国関係について室町幕府と交渉した際、往復の行程における見聞を、漢詩とそれに付した序という形式に盛りこんだ記録である。校注本は1987年3月に岩波書店から『老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本』として刊行されたが、対象が旅行記なのに、著者がたどった経路を踏査することもなく、ほぼ机上の作業に終始してしまった(1)。 それが心残りだったので、1986年に初めての海外旅行で韓国を訪れた際、釜山から鳥嶺越えでソウルに至る行程をトレースしたほか、日本国内の部分に関わっては、1990年に博多(はかた、現福岡市)から赤間関(あかまがせき、現下関市)を経て瀬戸内海航路をたどるルートを踏査した。さらに、『老松堂日本行録』の旅程だけでなく、踏査の対象を日・韓・中の港町およびそれを繋ぐ航路に広げ、機会をとらえては各地を訪れた。  1991年11月、日本所在の財団法人韓国文化研究振興財団(現、公益財団法人韓昌祐・哲文化財団)から研究助成を受け、私を代表者として、「三浦から釜山倭館へ 李朝時代の対日交易と港町」のテーマで、1年間の共同研究を行なった。それを担う組織として、孫承喆、荒野泰典(あらのやすのり)、髙橋公明(たかはしきみあき)の各氏および私の4名で「港町研究会」を結成し(のち関周一(せきしゅういち)・鶴田啓(つるたけい)両氏が加わる)、日本の国立国会図書館・国立歴史民俗資料館、韓国のソウル大学奎章閣図書館・国立中央図書館・国史編纂委員会での史料調査や、北陸地方(滋賀県~富山県)、山陰地方(山口県~鳥取県)の港町と三浦および釜山倭館について、現地調査を実施した。  その報告書は、1993年3月、同財団刊の『青丘学術論集』第3集に村井・荒野・髙橋・孫による論文「三浦から釜山倭館へ 李朝時代の対日交易と港町」として掲載された。論文は村井「三浦の鎮城と関限」、荒野「釜山倭館の草梁移転」、髙橋「近世前期の対馬藩と朝鮮政府」、孫・村井「朝鮮前期「三浦」関係史料目録」の4部からなっている。そのまえがきで、私は研究のめあてを「①残された文献史料の所在を確認し、その重要な部分を精読すること、②現地に赴いて、韓国人研究者の協力を仰ぎながら、歴史的景観の観察、地名や伝承などの聞き取りなどの歴史地理的調査を行ない、その結果を文献上の記録と突きあわせること、③韓国の中世・近世史の研究者と交流し、将来の研究協力の基礎をつくること」の3点にまとめた。本論文における「歴史地理学の手法」とはこうした研究方法を指している。  共同研究の成果は、上記論文とほとんど同時に刊行された新書版の拙著『中世倭人伝』(岩波書店、1993年3月)の「Ⅱ「三浦」 異国のなかの中世」にも盛りこまれている(2)。そこでは、1472年に朝鮮で刊行された日本・琉球地誌『海東諸国紀』に収める3枚の絵地図「熊川薺浦之図」(現、鎮海市薺徳洞)、「東萊富山浦之図」(現、釜山広域市東区)、「蔚山塩浦之図」(現、蔚山広域市東区)を片手に現地を踏査し、絵地図の海岸線、山容、集落などの描写が、相当程度正確であることを確認することができた。調査当時、富山浦は完全に釜山市の市街地と化していたが、薺浦・塩浦はかつての面影をかなり留めていた。しかし現在は、薺浦は沖合まで埋め立てられ、塩浦は集落が自動車工場の敷地となって消滅した。拙著の記述および写真は、三浦跡地のかつての姿を記録した文献として、なにがしかの意味を持つのではないか。

2.国際シンポジウムと韓国・中国滞在  1980年代後半から1990年代にかけては、日本と韓国・中国との人の往来が急激に拡大した時期だった。それ以前は対外関係史を研究していても、気軽に相手国に渡航して現地調査をやってみよう、という発想は生まれにくい状況があった。それを思うと隔世の感がある。そして学問上の交流は、渡航による調査だけでなく、複数国の研究者が会しての国際シンポジウムや、中長期の滞在による在外研究といったかたちでも盛んになった。以下、私が直接に関わったものだけ見ていく。  1990年に史料編纂所から文学部へ移籍した私は、翌年東京大学で開催された「東京大学・ソウル大学校第1回シンポジウム:日韓の交流と比較 歴史と現在」で、「中世日朝貿易における経典の輸入」と題する報告を行なった(3)。1992年には島根県が主催して松江市で開かれたシンポジウム「環日本海(東海)シリーズ92 高麗仏教文化と山陰」で、日本・韓国・北朝鮮の研究者に交じって、「中世日本の内と外」と題する報告を行なった(4)。1995年には韓国国史編纂委員会主催のシンポジウム「光復(1945年)以後50年間の史料整理・編纂事業の成果と課題」に招かれ、「日本の史料整理事業と韓国関係資料」と題する報告を行なった。この報告では、前半で日本所在の韓国史関係史料を通覧し、後半で日本における史料編纂事業の現状と問題点を史料編纂所を中心に紹介した(5)。終了後、全羅南道・慶尚南道に赴き、莞島の清海鎮址や各地の倭城址等を踏査した。1997年には韓日関係史研究会が主催してソウルで開かれたシンポジウム「韓日両国人の相互認識」において、「中世韓日両国人の相互認識」と題して報告した(6)。1998年1月には国立晋州博物館で開催された壬辰倭乱博物館開館記念国際学術シンポジウム「壬辰倭乱と晋州城戦闘」で、「壬辰倭乱の歴史的前提 日朝関係史における」と題する報告を行なった(7)。同年11月には泗川市主催のシンポジウム「泗川の歴史と壬辰倭乱」で、「島津史料から見た泗川の戦い」と題する報告を行なった(8)。2008年には、安東市の国学振興院で開催された韓日国際学術会議「蒙古の高麗・日本侵攻と韓日関係」において、「蒙古襲来と異文化接触」と題する報告を行なった(9)。  私の中国への渡航や史学界との交流は、韓国よりも少し遅れて始まった。1989年に荒野氏・尹健次氏と3人で、香港・マカオ・台湾を旅していたが、中国本土への渡航は、1996年に五野井隆史(ごのいたかし)・浅見雅一(あさみまさかず)・肥後智(ひごさとし)3氏とともに、上海・杭州・紹興・寧波を廻ったのが最初である。これらは私費による渡航だったが、「港町めぐり」が主要な目的で、とくに中世に日本僧が訪れた寺院と都市に重点を置いた。後者の旅の途中、上海の復旦大学日本学研究所で、13~14世紀に日本へ渡来した禅僧たちを素材に、「渡来僧の世紀」と題する講演を行なった。2000年発表の「明州天寧寺探索」は短いエッセイだが、寧波市立天一閣博物館所蔵の11世紀の博多在住宋人刻石、寧波市内に残る唐代の磚塔「咸通塔」、寧波の地方史と古地図、日本に残る経典奥書を重ねあわせた歴史地理学的考察で、この旅の成果である(拙著『中世史研究の旅路』校倉書房、2014年に再録)。  2002年の7月から9月まで、江原大学校孫承喆教授の招きにより、同校博物館に机を与えられて、在外研修を行なった。博物館員諸氏や孫ゼミの大学院生と交流しつつ、韓国内各地の史蹟見学(とくに檜巌寺址や端宗陵は印象深いものがあった)や韓国語学習に楽しい時間を過ごした。ソウル市の韓日文化交流基金で行なった講演「『海東諸国紀』に見る中世日朝間の相互理解」(10)と、南基鶴氏の論文「高麗と日本の相互認識」(韓国日本史学会『日本歴史研究』第11輯、2000年)の日本語訳(11)は、その成果の一部である。  帰国後まもない11月、東京大学の伊藤亜人(いとうあびと)氏の誘いで参加した珍島学会結成及び第2回珍島国際学術大会「珍島文化と地域発展」(珍島郡庁)では、「珍島の三別抄 海上王国の夢」と題する報告を行なった(前掲『中世史研究の旅路』所収)。報告では、1270年にモンゴル軍への反乱に決起した三別抄の築いた龍蔵山城址=「王都」を歩いて、島自体および四方との交通における優れたロケーションを確認した結論として、つぎのように述べた。「三別抄が、内部に深刻な路線対立を抱えつつも、このような開明的な視野を持ちえた理由のひとつは、かれらが海上交通の十字路珍島にあって、海上王国の創出をめざしていた点に求めることができるだろう。」  ついで2004年8月から翌年1月まで、北京日本文化研究センターに派遣専家として赴任し、中国人大学院生を対象に週2回・1学期分の講義を担当した。院生は勉強熱心で人なつっこく、教室の外でもさまざまに付きあった。のちその一人が東京大学に短期留学したときには指導教員を勤めた。自由時間には、バスや地下鉄を利用しつつ北京市内をむやみに歩き回っては、皇帝権力を現出した空間構成や住民共同体のあり方が、日本とは際だって異なることを痛感した。滞在中、北京日本学研究センター日本学総合講座と北京大学日本語学部において、韓国全羅南道の新安沈船や長崎県鷹島のモンゴル軍沈没船を題材に、「海上の道、海底の船」と題する講演を行なった。

3.科学研究費補助金による研究プロジェクト  2000年代に入るころから、日本の「科学研究費補助金」を得て実施した、多人数によるテーマ研究に継続的に関わるようになった。いずれのプロジェクトにおいても、その主要な特徴は東アジア海域をフィールドとする歴史地理学の手法にあった。  (1) まず2000~2003年度に、基盤研究Aのジャンルで「8~17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流 海域と都市の形成、民族・地域間の相互認識を中心に」が採用され、その研究代表者となった。研究組織は総員52名で、「博多・対馬・三浦と日朝(韓日)関係」「使節・巡礼僧の旅」「琉球ネットワーク論」「倭寇ネットワーク論」「世界観と異文化コミュニケーション」の5班に分かち、韓国9名、中国3名、台湾1名、フランス1名、米国1名の海外共同研究者が参加した。とくに現地調査に重点を置いて、日本国内と海外にほぼ等しい比重をかけた。海外での調査地は、韓国の慶尚南道・全羅南道、中国の浙江省・江蘇省・福建省、台湾、ポルトガルである。2004年3月に東京大学大学院人文社会系研究科より報告書上下2巻(A5判980ページ)を刊行した。報告書は「海域世界の人・物・情報」「自他認識と世界観」「巡礼と使行の足跡」「海賊と海防」「琉球弧の世界」「日朝関係の展開」「論文目録」の7部編成とし、58本の論文・史料報告・年表などが掲載されている。  (2) 2003~2007年度には、特定領域研究「中世考古学の総合的研究」傘下の計画研究として、「中世港湾都市遺跡の立地・環境に関する日韓比較研究」を実施し(最終年度のみ「特別研究促進費」による)、その研究代表者となった。私のほか、研究分担者2名、海外共同研究者2名、研究協力者7名という構成で、港町遺跡に焦点を絞って日韓の比較を試みた。現地調査は韓国で4回(南海岸、西海岸、鬱陵島を含む東海岸、済州島)、日本で3回(西北九州、大分(おおいた)県、出雲(いずも)・隠岐(おき))実施し、韓半島の西・南岸と、同東岸を含む日本海沿岸とで潮汐差に極端な違いがあり、それが港湾の立地や構造に大きな変異をもたらしていることなどを確認した。報告書は2008年3月に東京大学大学院人文社会系研究科から刊行され、私の「港のできる場所 日韓の比較から」のほか、佐賀県佐志・大分県府内・済州島・薺浦等の港町遺跡や、韓国内の倭寇の足跡に関する歴史地理学的考察が収められている。  (3) 2005~2009年度には、特定領域研究「東アジア海域交流と日本伝統文化形成との関係 寧波を焦点とする学際的創生」(通称にんぷろ)傘下の計画研究「中・近世朝鮮をめぐる東アジア交流と寧波」(研究代表者森平雅彦氏)に、研究分担者として参加した。現地調査では韓半島西岸海域の極端な潮汐差、多島海と速い潮流を実見した。にんぷろの研究成果は汲古書院からシリーズ『東アジア海域叢書』として続々刊行されており、その14冊目の『中近世の朝鮮半島と海域交流』2013年には、森平氏の雄編「文献と現地の照合による高麗~宋航路の復元 『高麗図経』海道の研究」が収められている。私は同書に「15世紀朝鮮・南蛮の海域交流 成宗の胡椒求請一件から」を寄稿し、明中心の冊封体制の枠外で朝鮮~九州~琉球~東南アジアを結ぶ海域交流が行なわれていたことを論じた。  (4) 2010~2013年度には、基盤研究Bのジャンルで「前近代東アジアの外交と異文化接触 日明関係を軸とした比較史的考察」が採用され、その研究代表者となった(研究分担者は6名)。内容は、著名な遣明使節策彦周良に関わる『初渡集』以下の文献史料の輪読と、遣明使のたどった寧波~北京間の行路をトレースする現地調査との二本立てで、典型的な歴史地理学の手法である(12)。行路の長江以南の部分は、「にんぷろ」等過去の調査で踏査済みだったので、本研究では長江以北を3つの区間に分けて3年次までに踏査した。ほかに、遣明使行路と比較する意味から、ソウル・北京間の燕行路のうち遼寧省部分を最終年次に踏査した。成果は、村井編『日明関係史研究入門 アジアのなかの遣明船』(仮題、勉誠出版より近刊の予定)に、論文・人物伝・踏査記録・史料校注など多様な形態で掲載されることになっている。

4.若干の展望 倭館、倭寇、大運河  私は、2006年に発足した「日中歴史共同研究」に翌年から外部執筆委員として参加し、古代・中近世史部会に所属して「15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係」のテーマを担当した。このプロジェクトでは、同じテーマを原則として日中1人ずつが担当して議論を交わしあうかたちをとり、私のパートナーは日本の戦後史が専門の王新生北京大学歴史系教授だった。2008年に北京の中国社会科学院で粗稿の発表会があり、議論のすえ、2010年に『日中歴史共同研究第一期報告書』(日中原文)を刊行して、プロジェクトは終了した。戦後史の部分とパートナー相互のコメントは、両国の折りあいがつかず掲載されなかった(13)。論文集の公刊はやや難航したが、日本語版は、2014年に至って、北岡伸一(きたおかしんいち)・歩平編『日中歴史共同研究報告書』第1巻古代・中近世史篇、同第2巻近現代史篇として、勉誠出版から刊行された。この共同研究では、双方の国家的立場を背景にした公式見解の応酬という色彩が強く(14)、歴史地理学の手法による現地調査といった発想は見られなかった。  2007年12月、福岡県太宰府(だざいふ)市の九州国立博物館で、「朝鮮通信使400年記念国際シンポジウム:アジアのなかの日朝関係史」が開催された。これは東京の朝鮮王朝実録講読会30周年、ソウルの韓日関係史学会15周年、福岡の世宗実録研究会10周年を記念する催しで、成果は北島万次(きたじままんじ)・孫・橋本雄(はしもとゆう)・村井編『日朝交流と相克の歴史』、校倉書房、2009年として刊行された。とくにそのⅢ部「倭館・倭城を歩く」には、孫「薺浦倭館の過去と現在」、大西信行(おおにしのぶゆき)「薺浦から富山浦へ」、村井「倭城をめぐる交流と葛藤」、柳在春「韓日城郭変遷史の比較一考」、尹裕淑「近世倭館 朝日接触と密貿易」が収められており、日朝(韓日)関係史における歴史地理学的手法の定着が看取される。  前記した科研(1)(2)における海外共同研究者李領氏の倭寇移動ルートに関する研究や、薺浦の景観を過去に遡って復元しようとする孫氏の研究は、歴史地理学的方法として優れたもので、私の関わった国際共同研究がその発達に多少とも貢献できたとすれば、喜ばしいことである。こうした研究方法は、ナショナリズムに支配された歴史解釈からできるだけ自由になって、現地を歩くことで新しい視野が開けてくるものである。その意味で、倭寇集団を九州から渡海した武士団=完全な外部者とみる李氏の言説には、歴史地理的手法からの遊離が見られないか、危惧を覚えるものである。  倭寇については、東京大学史料編纂所と中国国家博物館の共同による「倭寇図巻」「抗倭図巻」研究によって、精細なデジタル画像による画中文字の発見をはじめとする、大幅な進展があった。従来は孤立的な作品と考えられてきた「倭寇図巻」が、蘇州を中心に製作された歴史絵画群の一翼をなすものであり、描写の対象は1550年代の江南における嘉靖大倭寇であることが分かった(15)。このことの持つ意味は大きく、倭寇の活動した江南地方の歴史地理学的踏査がより高い精度で実施できるようになった。実際、2011年から始まった史料編纂所の研究プロジェクト「東アジアにおける「倭寇」画像の収集と分析」では、中国科学院の黄栄光氏や美術史の板倉聖哲(いたくらまさあき)氏(東京大学東洋文化研究所教授)、それに私など外部から共同研究員を加えて、作品研究と現地調査を展開しており、今年度も継続中である。  科研(3)の箇所でふれた宋使節の高麗渡航経路の綿密な探索は、おなじ海域で活動した倭寇集団の理解にとっても、重要な示唆を与えてくれた。昨年発生した大型旅客船セウォル号の遭難事故も示すように、韓半島西・南方の多島海は世界有数の潮汐差、速い潮流と濁った海水のそろった海の難所であり、外部から来て地理を知らない船団が、現地人の案内抜きに航行できたとはとうてい考えられない(前掲「倭寇とはだれか」参照)。  また、科研(3)(4)などによる京杭大運河沿線の踏破は、日本では見られない内陸水運のシステム(水駅、閘門、船の牽引法など)について、多くのことを学ばせてくれた。さらに個人的には、15世紀の水墨画家雪舟(せっしゅう)が遣明使に加わってこのルートを往来した経験をもとに描いた、「唐土勝景図巻」「国々人物図巻」などの作品群について、その成立をより深く理解する道筋を与えてくれた。その成果は2008年に杭州市で開かれた国際学術シンポジウム「東アジア文化交流 人物往来」で、「笑雲瑞訢と雪舟等楊 入明記と水墨画にみる明代中国」と題して報告し、2011年に『東京大学東洋文化研究所紀要』第160冊に論文として発表した(拙著『中世史料との対話』吉川弘文館、2014年に再録)。

注 (1) 田中氏と私とは親子ほどの年齢差があるが、1977年に史料編纂所のメンバーを中心に発足した「前近代対外関係史研究会」(代表・田中氏)において、関心を共有する研究者同士として親密な付きあいがあった。田中氏の手がけた『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』は、おなじく岩波文庫から1991年に刊行された。なお、以下に述べる諸調査の成果は、2000年に出た『老松堂日本行録』岩波文庫版3刷に、できるかぎり反映させてある。

(2)『中世倭人伝』は2006年までに6刷を重ね、また1998年には李領氏によって韓国語に翻訳された(『中世倭人の世界』翰林新書・日本学叢書37、小花刊)。拙文の翻訳としては、他に江静訳「漢詩与外交」『中日関係史料与研究』第2輯〔浙江省中日関係史学会叢刊5〕、2004年、孫承喆・金剛一訳『東アジアのなかの中世韓国と日本(景仁韓日関係研究叢書6)』景仁文化社、2008年(論文集、全544ページ)がある。

(3) 拙著『国境を超えて 東アジア海域世界の中世』校倉書房、1997年、所収。

(4) 環日本海松江国際交流会議編『環日本海シリーズ92高麗仏教文化と山陰』、1993年、所収。その内容は拙著『中世日本の内と外』筑摩書房、1997年(2013年ちくま学芸文庫版として増補・再刊)の骨組みをなした。

(5)『国史館論叢』73輯、1997年に掲載。のち拙著『中世史料との対話』吉川弘文館、2014年に再録。

(6) 韓国語版〔孫承喆訳〕が韓日関係史学会編『韓日両国人の相互認識』国学資料院、ソウル、1998年に掲載。

(7) 韓国語版〔張源哲訳〕が『南冥学研究』7輯、1998年に、日本語版が『歴史評論』592号、1999年に掲載。のち拙著『日本中世の異文化接触』東京大学出版会、2013年に再録。

(8) 韓国語版〔張源哲訳〕が『南冥学研究』8輯、1999年に、日本語版が『歴史学研究』736号、2000年に掲載。のち拙著『世界史のなかの戦国日本』筑摩書房、2012年に再録。

(9) 韓日文化交流基金・東北アジア歴史財団編『モンゴルの高麗・日本侵攻と韓日関係』景仁文化社、2009年に掲載。

(10)「東アジア諸国と日本の相互認識 15・16世紀の絵地図を中心に」小島孝之・小松親次郎編『異文化理解の視座』東京大学出版会、2003年所収、参照。

(11) 平成12~14年度科学研究費補助金・基盤研究(A2)研究成果報告書『グローバリゼーションの歴史的前提に関する学際的研究』研究代表者荒野泰典、立教大学文学部、2003年、所収。

(12) 本研究の前提となった仕事に、遣明使節入明記の輪読の成果をまとめた村井章介・須田牧子編『笑雲入明記 日本僧の見た明代中国』平凡社東洋文庫798、2010年がある。

(13)「倭寇とはだれか」拙著『日本中世境界史論』岩波書店、2014年、所収で、私の論文に対する王教授のコメントに関して、若干言及した。

(14) それが反映してか、中国側メンバーの大半が社会科学院と北京大学の人で占められており、担当するテーマの専門家とは思えない研究者が出てくる傾向があるように感じられた。

(15) 東京大学史料編纂所編『描かれた倭寇 「倭寇図巻」と「抗倭図巻」』吉川弘文館、2014年。

발표문 목록

구분 제목
1 한일 양국, 역사대화 어떻게 할 것인가? - 양국 정부간 역사대화의 회고와 전망 -
2 日韓中歷史共同硏究における歷史地理学の手法(Historical Geographic Method in Joint Researches on Japanese-Korean-Chinese History)
한중일 역사공동연구에서 역사지리학의 수법
3 한일 민간교류에 관한 활동소개와 제안
4 한일관계의 키워드 - 문화교류